糾弾
7.かげふみ

気が付いても
振り返ってはいけない
気が向いても
目を向けてはいけない

それでも俺は、気付いてしまったんだ───



 辛うじて押さえ込んでいたホンノウを解放して半ば意識を失うように自分の中の「バケモノ」は目を覚ました。力も尽きかけていた自分にとって、それは当然の理だったのだが、しかし、自分はそれを望んではいなかった。このまま、死んでしまっても良いかと、思っていたのだ。
 けれど、太陽の少年は、それを許さなかった。
 その理由が彼の自分勝手な理由に基づくものだろうと、自分にはそれは望んでいなくとも結果的には好機であったわけで。それは、「バケモノ」にしても同じことで。
 腹が減っているときに目の前に食べ物があれば誰だって食いつく。
 それが自分にとって馳走であるなら尚更だ。理性で「それは駄目だ」といくら叫んでも、瀕死且つ飢餓状態であった自分にはそんな言葉は届くはずもなく。
 結果。
 冷静になって理性を取り戻したときには、

 こうして目の前に生気の完全に掻っ消えた太陽の少年が転がっていたのだった。


「…………あーあ…。とうとうやってしまいましたねー。」

 協会に本格的に追われてから暫く、自分は珍しく長いこと「食事」を取ることはなかったのに。力が足りなくなったら、腹が減ったら、別の方法で回避してこれていたというのに。
 まさか。
 こんな少年にその長年の苦労を水の泡にされるとは思わなんだ。

「…それが、どこか不本意だと思ってないところが、嫌なんですがねー…。」

 この自分の性格がいい加減疎ましい。少しは罪悪感でも感じれば良いものを。それすら失くすほど、自分は落魄れてしまったか。
 いや、この場でそんな無駄なことを考えていても仕方のないことだ。
 目下、問題なのは。

「………例の約束、どうしましょうかね…。」

 この少年との約束は、自分からしてみれば実に理解し難いことだった。ホンノウ剥き出しになっていたからこそ勝手に取引が成立したわけだが、本来ならばありえない。誰だって、そんなことを承知するはずもない、「申し出」だった。

「……………」

 本来であれば、退ければ良い。其れを達成するためには、この少年を喰らう。それだけだ。吸血鬼に血を吸われたものは同じくして吸血鬼の同胞となる。それを防ぐには、その死体毎吸血鬼が喰ってしまえば良い。動く肉体がなければ吸血鬼は誕生しない。そういう、理屈だ。
 けれど。

「………約束、ですしねぇ。」

 この少年は、自分の目的を達成するために自分を助けたのだとしても。それでも、そのお陰で自分が今生きていることに変わりはない。ならば。選ぶしか、ないだろう。

「……、しょうがない、ですねぇ…。」

 浦原はその場からゆっくりと立ち上がり、少年を公園のベンチに横たわらせたまま、目を覚まさぬ少年に背を向けた。

「…タイムリミットは、後3時間。それまでに、『覚醒』しなければ、アナタの負けですよ。──SchwarzErdbeere」

 不穏な言葉を残して、浦原の姿は、闇に溶けた。



+ + +



 午前4時。
 まだ暁の音は訪れない。
 それが一護にとって二重の意味で幸いしたことを知る数分前、薄暗闇の街の中、公園の真ん中で、一護は『覚醒』した。

「…………、生きてる…」

 呟いて、確かめるように身体に触れる。そして、右手が心臓の部位に来た瞬間、その台詞が間違っていたことを知る。

 心臓は、動いてはいなかった。

 しかし。それに多少の驚きはあるものの、何故か絶望感はなく、寧ろどこか安心感と納得感がそこにはあった。

「そうか。これが…」

 『吸血鬼』という、ものなのか。
 心臓は機能していない。しかし、呼吸はできる。手足も動く。視界も明るく、聴覚も嗅覚も良好だ。五感に関していうならば、寧ろ生前よりも優れているように思えるくらいだ。
 けれど、『死んでいる』。
 致命的に、死んでいる。確実に、今、自分は生きていない。

 肉体的にも精神的にも自由であるはずのこの身が、唯一、『死』という概念に拘束され、『時間』という檻から追放された。

 それは、今まで味わったこともない、不思議な、感覚だった。
 それが、吸血鬼としての『覚醒』。人間としての『終端』。バケモノの、『誕生』。
 クリアになった頭で、一護が考えることは、唯一つ。ゆっくりと立ち上がり、人間という属性から離れたその掌を見つめ、握り締める。

「…よし。これで………」


──俺の望みは叶えられる。


 太陽を永久に奪われた少年は、白み始めた世界の中で、絶望を身に纏って笑っていた。



+ + +



俺の頭上に、太陽はない。

 暗転とした世界から、目蓋を開けて、世界を見る。俺の世界は四方を白い壁に覆われた、わずか6.4平方メートルの小さな箱だけだった。その中で息を詰まらせながら生きながらえる俺の上に、太陽は輝かない。俺を照らすのは安っぽく白を白として移す蛍光灯だけ。ちかちかと瞬くそれに、俺は目を細めながら、まだ自分が生きていたことを確認した。
 自分が、酷く衰弱していることは、分かっている。分かっていた。恐らく、と言わずとも、俺はもう長くない。さっき両親が担当医と話しているのを遠ざかる意識の中で聞いていたが、どうやら、もう明日どころか今日の朝日も拝めないようだった。
 もう何度も、俺は冥府の境に足を伸ばしている。三途の川は未だ拝んでいないが、近いものは体験しているんだろう。毎日が苦痛の連続で。息を吸い込んでは気管支と肺がギシギシと音を鳴らし、消化器官はまともな食べ物を消化した経験などないだろう。太陽の光すら、色素細胞を持たない俺にとっては凶器でしかない。この世界の殆ど全てを拒絶するこの身体で、太陽など拝めるはずもなく。

 あの眩しさに手を伸ばしても、焼き切れてしまうだけだと、知った。

 それでも、俺は自分を不幸だとは思ったことがない。それは、きっとアイツが居たからだろうと、思う。苦痛を感じても歓喜を感じても涙の流し方を知らない俺の代わりに、大粒の涙を俺に降り注ぐ、太陽と同じ色を持った、俺の弟。

 俺の頭上に太陽はないが、俺には確かに太陽があった。

 幸せだったんだと、思う。
 何よりアイツが、居てくれたから。

(そういえば…一護が何か叫んでいたような気がするが…。何処に、行ったんだ…?一護…。)

 そんなことをぼんやりと思って、カーテンの掛かった窓に目を向ける。
 と。

「斬零!」
「…一護?」

 窓はいつの間にか開けられていて、窓枠に、一護が居た。

「なんで、お前、んな処に…」

 貼り付いていた呼吸器を外し、身体を起こそうとすると、一護にやんわりと止められた。身体一つ起こすのももう自分の力じゃ無理だと一護も分かっているのか、ゆっくりできる体勢にしてくれる。

「なんでお前、窓なんかから入ってきて…」
「無理しなくていいから。それよか、さ。斬零、聞いてよ。」
「? 一護?」

 どうしてドアからでなく、窓から一護が入ってきたのか。それについて働かない頭でぼんやりと考えていると、一護が嬉々とした表情で俺に話しかける。その顔が久しぶりにみる一護の笑顔だったから、俺は何かいいことでもあったのかと、一護の話に耳を傾けたが。



 一護の口から放たれた言葉は、希望に擬態した絶望と俺の世界の終わりを告げる言葉だった。



+ + +




「………何、言ってんだ…?一護…」

 白み始めた窓の外、突き刺さる暁光を遮るように引かれた遮光カーテンにより、部屋の中に光はない。その暗さの中、光を探るように発せられた斬零の言葉は、酷く弱弱しかった。

「え?だからさっ、これからは、ずっと一緒に居られるんだよ!この方法を使えば、『今までみたいに』離れることはないんだよ!ずっと、ずっと斬零と一緒に居られる。それも、他の奴等とは、全然比べ物にならないくらい、長い時間、ずっと一緒に居られるんだぜ?」

 凄いだろ!と名案を話す俺の顔を、何か信じられないという目で斬零は見てきた。見開かれた金色の瞳にいっぱいに、俺の顔が映る。どうしてだろう。いつも必死になって見つめてきたその目を、何故か今は全力で逸らしたい気持ちに駆られる。けれど、そんな『些事』に拘っている場合ではない。
 『時間が無い』のだ。
 早くしなければ、夜が明けて完全に日が昇ってしまう。そうなる前に、事を済ませなければ、俺の身も斬零の身も危うくなってしまう。早く、したいのに。

「…?嬉しく、ないのか?斬零…」
「…………あ………?」

 今まで、こんなに斬零の目が大きく開いている所を見たことがあっただろうか。発せられる声が、震えているのは、気のせいだろう?
 だって、

「だって、死ななくて、いいんだよ?」

 こんな、名案。もうきっと、他に無い。

「な、だから早く、やろう?斬零っ 俺と、お前が、『ずっと一緒に居られるように』」
「……いち、ご…」

 弱弱しく、伸ばされた斬零の白い手が、俺の首筋に触れて、

「────っ!!!」

 その瞬間、斬零は弾かれたように触れた手を俺から離した。

「……斬零…?」
「………っ」

 その瞬間、斬零は何故か、泣きそうな顔を俺に見せた。

 けど。
 俺にはその意味が、分からなかった。

「……いちご……、……っ」
「………?」

 俺は訳が分からずに、斬零の顔を見ながら首を傾げた。

 さっきのは、何?
 俺に触れた手を、離したのは、何故?
 そんなにも泣きそうな顔をしているのは、如何して?
 ざくろは、おれを、

「拒否、すんのか…?」

 どうして?
 だって、しななくていいのに。
 ずっと、いっしょにいられるのに。
 このてがふれられるいち、に、
 ずっとずっと、いっしょに。

 ど う し て


「ざくろは、おれを………」
「────っ違う!」


 呆然と立ち尽くした俺を、斬零が飛びつくように抱き締めてきた。

「違う、一護、違う。…悪ィ。ちょっと、驚いた、だけだって。」
「ざくろ…?」
「良いぜ。一護が其れを望むなら、俺は、其れで良い。」

 そういって、斬零は、朽ち掛けた身体を俺に全て預けて、静かに、その首に俺の牙が突き立てられるのを、目を閉じて待った。


「ずっと、いっしょだ。」

 呟いたのは、どちらだったのか。


 体温を失くした俺の肌に、斬零の身体は暖かかった。




+ + +




「は、はは… 200年も前の記憶なんか…今更、夢に見なくてもいいだろ……」

 5月18日。午後7時59分。俺は、泣きながら目を覚ました。