「ぅ、ん──っ ん…?」
覚醒しない意識の中、何かに口を塞がれたように急に呼吸が苦しくなって、俺は重い闇の底から意識を引っ張り出して、漸く目を開けた。
夜なのか、明けても然程明るさの変わらない視界に最初に映ったのは。
「やっと起きたか…」
「……剣、八──…」
夢の中如何しても会いたくて、何度も名前を叫んだ彼だった。
「ど、して──…」
まだ擦れる声を駆使して、信じられない光景に疑問符を浮かべる。
その時、ふと、剣八の唇が月明かりで光るのが見えて。そして、喉が焼けるほど乾燥していたはずの自分の唇が、同じように微かに湿っていることに気づいて。
さっきの、目が覚めた瞬間の顔の近さを思い出して。
そこで漸く、先刻の息苦しさは、剣八にキスされていたからなのだと──知って。
「な ん、で…?」
有り得ない筈の事実に、困惑して揺れる瞳を隠すことも出来ないまま、剣八に問う。
「──テメェが、倒れてから頻りに俺の名前ばっか呼ぶから、如何にかしてくれって頼まれたんだよ。」
「──…」
やっぱりか。
面倒臭そうに嘆息しながら言う剣八に、それが剣八の本心からではないのだと悟る。
当然か…。
あれだけはっきりと捨てられておきながら、最後に残された曖昧なあの一言に期待を掛けて。まだやり直せるんじゃないのかなんて。心の何処かで考えてる甘い自分に反吐が出る。
「そりゃ…悪かったな…。もう、呼ばねぇから…」
帰るなら帰れよ、と。
出て行くなら早くしてくれ、と。
言わなきゃいけない台詞が、毀れそうになる涙と嗚咽に遮られて、出てこない。
「───っ……っ」
ヤバイ。
泣くな。泣くなよ畜生──。
今まで堪えてきたじゃねぇかよ。
とっくの昔に分かってたことじゃねぇか。
諦めるために、身体から剥がしたんじゃねぇのかよ…っ。
如何して、この期に及んで、この心が邪魔をするんだ──…。
はァ、と、一つ洩らされた溜息に、ビクリと身体が震える。
また、聞き飽きたあの『終末』の台詞を聴くのか──…
咄嗟に耳を塞いで、頭を抱える。身を縮めて、自分を護るように、俯いて。全身で剣八を拒絶した。
「一護…」
「──っ嫌だ!!」
「一護」
「嫌だ!!聞きたくねぇ!!」
必死で耳を塞いだ手を外されないように、触れてくる手を払いのけるように頭を振った。
「一護!」
「嫌だ!!嫌だ嫌だ嫌だ!!!い、──っ」
駄々を捏ねる子供のように泣きながら暴れる俺を、剣八は力尽くで押さえ込んで、キスで無理矢理言葉を塞いだ。
「お前、訳分かんねぇんだよ。」
「──は…?」
さっきの乱暴な所作とは裏腹に、暴れる俺の身体毎抱き込んで、伝う涙を優しく指で掬い取りながら剣八は言う。
「お前…俺が嫌いなんじゃなかったのか。」
「……ぇ…?」
「俺に抱かれんのが嫌なんじゃなかったのかよ。身体壊す程拒絶しておいて…。他に好いてる奴でも居るんだろうと思って放してやれば、今度はぶっ倒れて瀕死の状態で『俺の名前を呼んでる』だ?訳分かんねぇ…。テメェ一体、何がしてぇんだ?何を考えてんだ?」
分からねぇよと、俺を抱き締めたまま剣八が苦しそうに耳元でそう呟くから、さっき必死で揉み消した欲望がまた顔を見せ始める。
「──っ 、」
「言えよ。俺が頭良くねぇことぐれぇ知ってんだろ。お前が考えてることも、思ってることも、何をしたいのかも。言われなきゃ、分かんねぇんだよ…。」
包み込まれる体温が高くて、抱き締められた腕を振り解くことも出来ないまま、この欲望を口にしていいものか、未だに迷う俺に、剣八はその腕の力を強めた。
「言え。言え、よ…一護。教えろ…。俺は、お前を求めても、想ってても良いのか──…?」
その台詞を聴いた瞬間。
何か、が。
何処かで切れるような音を聞いた。
──ドンっ!!
何処にそんな力が残っていたのか、というほど、俺は思いっきり剣八を全力で突き飛ばした。
「──ぃち」
「煩ぇっ!!──っよく、そんな台詞が言えるな!!そんなに俺を馬鹿にしたいのか!!そんなに俺で遊んで楽しいかよ?!」
戸惑う剣八に向かって、枯れた喉に気を遣おうという気も無く、俺は全力で怒鳴る。
「〜〜〜っ人の気持ちも知らねぇで…っ!!何処まで俺を虚仮にすれば気が済むんだ!!」
「一護…?」
「黙れっ!!──っ… け、の…クセに…っ!!」
叫ぶ度にボトボトと落ちる涙を拭うこともせず、握り締めた拳の中で食い込む爪の痛さも無視して、沸騰した激情の癇癪をそのまま剣八にぶつけた。
「躰だけだったクセに!!お前が必要なのは、お前が欲しかったのは性欲が処理できれば良かっただけの…っ、孕むこともない都合の良いこの躰だけだろうが!!」
抑えてきた感情が、言葉に形を変えて凶器になる。
「いくら俺が嫌だって言おうが拒絶しようが構わなかったじゃねぇか!!俺のことなんか、俺が何を思ってようが気にも留めなかっただろうが!!」
分かっていても、堰を切った感情の濁流は、もう抑えることは出来なかった。
「なのに今更…っ、今更何なんだよ!!『求めても良い』?『想ってても良いか』だと?!同情でもしてんのか?!人のプライド踏み躙んのも大概にしろよ!!んな…っ、そ、んな…っ 」
そんな、お情けみたいな愛情貰ったって嬉しかねぇよ。
そんなに俺が滑稽か?そんなに俺が可哀想かよ?
そんなに、俺が惨めに見えるかよ──
「──フ、ザけんじゃ…ねぇ──…」
どんな想いで。
俺が、お前を好きだったかも知らねぇクセに…
お前に分かるかよ?
誰にも言えない、一生伝えることなんか出来ねぇって一生懸命感情殺す気分が
その相手に、女郎みたいな扱いされる気分が
自分勝手に思って、自分勝手に傷つく自分が滑稽で、必死になって隠す気分が
捨てられても尚、馬鹿みたいに浅ましく求める心も躰も全身全霊で押さえ込まなきゃいけない気分が…っ
そ れ を
いとも簡単に
お前は───…
踏 み 躙 る の か
「───勝手なこと言ってんじゃねぇ…っ!!」
左側にあった点滴のスタンドを、右手で思いっきり掴んで、腕に針が刺さったままなのも構わず剣八に投げつけた。
ガッシャ─────ンッ!!!!
激しい金属音を立てて、スタンドが床に叩きつけられて見るも無残なほど、原型を留めず変形して転がった。
姦しく鳴り響く反響音とは裏腹に、ことの起きた病室は異常なほど静かになった。
ぽたり、と。剣八の羽織に赤い血液が落ちて染みを作る。避ける事も庇う事もしなかった剣八の左目の真上の辺りに、10cmほどの傷が走っていた。そこから流れ落ちる血を拭うこともせずに、剣八は黙って一護を見る。スタンドが当たった拍子に切れてしまったのか、するりと、眼帯が取れて床に落ちた。
闇の中、鳶色の瞳と真紅の瞳が交差する。
「…言いたいことは、それだけか。」
沈黙の中、最初に口を開いたのは剣八だった。
地を這うような低い声に、暗に剣八が激怒していることを悟る。
「──っな、…だよ…っ」
余りに露骨に激情を顕にする剣八に、一護は一瞬怯むが、虚勢を張るようにまた剣八を睨んだ。ゆっくりと、一護の方へと足を進める剣八に、立ってもいない筈の一護の足が無意識に竦む。
「っな、───っ?!」
遂にベッドの横に剣八が立ったかと思ったら、間髪入れずに一護は顎と腕を掴まれベッドに押し沈められた。ギシ…っとベッドのスプリングが軋む音を立てる。
「──っけ、んぱち…っ」
押さえつけられる痛みと恐怖に、一護が苦痛の声を上げた。
「…『勝手なことを言うな』と言ったな。」
「あ…?」
怒気を孕んだ低い声のまま、剣八は言葉を告ぐ。
「それは、俺がお前に言う台詞じゃねぇのか」
「は…? 何、言って──」
疑問符を付けず肯定の意で質問文を投げ掛けてくる剣八が、何を言いたいのかが分からない。
「俺がいつ、お前を抱いた理由を『躰だけ』っつったよ。」
「…え……」
唯でさえ薄暗い病室の中、逆光で表情が見えない剣八から、ぽたり、と。雫が一護の頬に落ちる。
「俺がいつ、お前を性欲の捌け口にしたっつった。」
「………」
言ってない。確かに剣八は、一度もそんなことは言ってはいない。
けれど。言ってないのはそれだけじゃない。そもそもに置いて、『抱く理由』を唯の一度も口にしたことは無かった。
それが、何よりも…
・・
そうであると。言っているのではないのか。
「一護… 俺がいつ、お前に同情したっつったんだ。」
「………だ、…っ」
だって、と。続く言葉は、言えなかった。
ぽたぽたと、自分の頬に落ちるその雫が。光に反射して。予想していた緋色ではないと。
透明な、『涕』なのだと。
気付いてしまったから。
「…剣、八……?」
怒りから来ているものだと思っていたその震える低い声も、嗚咽を堪えている故にだと。知って。
その事実と事象に、困惑して、戸惑う瞳が揺れるままに剣八を見る。
「俺ァ頭が良い方じゃねぇ。お前が何考えてんのかも、お前が何を望んでんのかも分からねぇ。この感情が…どうやったらお前に伝わるのかも分からねぇし、『大切にする』なんてやり方、知らねぇよ…」
普段の剣八からは考えられないほど、ともすれば掻き消えてしまいそうな声色で、ポタポタと落ちる涙と共に言葉を落される。
「躰さえ手に入れれば…抱きさえすれば、お前全部俺のものになるんだと思ったが…。まだ、何が足りねぇんだ?どうすれば、お前を俺のものにできんだよ…」
教えろ、と。心臓が潰れそうな悲痛な声で。まるで壊れ物でも扱うように抱き締めてくる剣八の方が、壊れてしまいそうな気がして。
おずおずと背中に手を伸ばして、広過ぎて抱き返せない代わりに剣八の羽織を握り締めた。
「…お前、相当馬鹿だろ。」
「あ゙?!」
「馬鹿だよ。本当に馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿バーカ。」
「…いい加減にしろよクソ餓鬼が…」
憎まれ口を叩く口とは裏腹に、羽織が皺になるまで握り締める手に力を籠める。イラついたように返してくる剣八も、言葉とは逆に俺を抱き込む腕は何処までも優しくて。
そういえば、荒く抱くときも貪るように喰いつくときも、抱き締める腕と重なる唇の優しさだけは、変わらなかったことを思い出した。
嗚呼。コイツも大概にしてそうだが、自分も同じように馬鹿なんだと。今此の時になって初めて思い知る。
僅かに肩を押して距離を作り、唇を縦に裂くように走る傷に手を伸ばして。乾いた薄い唇を指先でなぞる。
「その口は、一体何のために付いてんだよ。」
「あ…?」
「モノ喰う為だけじゃねぇだろ?他人罵る為だけじゃねぇだろうが…。足りないんだよ。一番欲しいモノが。一番、重要なモンを、俺は貰ってない。」
「だから、其れが分からねぇって言って──」
苛立ったように乱暴に涙を拭いながら言う剣八の口を手で塞いで。まだ緋色を揺らす雫を掬って。でも、と言葉を告ぐ。
「でも、俺も、剣八に其れをやってなかった。貰うことばっか考えすぎてて、俺だって剣八にやってなかったんだよな。」
だから、此処まですれ違うんだと。周りから見ればもどかしいほどに『今更』なことに気付く。
それでも、そこまで辿り着くのにこんなに時間がかかるほど、俺もお前も不器用なんだったら。
気付いた方からやんなきゃ始まんないんだろう。
剥がれてしまった心と躰を繋ぐ、唯一の術。伝わらない思いも気持ちも、これ以上目を背けては居られないから。
「好きだよ。俺、剣八が好きだ。」
目を逸らすことなく真っ直ぐに、剣八を見据えて言う。
「…だから、躰だけじゃ嫌だし、剣八が欲しいよ。」
躰だけ繋げたって、どう思ってるのか、どう思われてるのか分からない。不安で仕方がないんだよ。
「心も躰も、剣八を築く全部が欲しい。俺のモノだって言いたいんだよ。同じように…俺だって見て欲しい。躰だけ必要なんだったら、俺は要らないのと同じだろ?だから…」
だから、もし、俺と同じものをお前が望んでるんだったら。
「好きだって言ってよ」
どれだけ抱き締められても。どれだけキスを貰っても。どれだけ身体を重ねたって、分からないから。不安なだけだから。
何より…怖いから。
不安と恐怖で剥がれる心を繋ぎとめるために、欲しかったのは──『言葉』。
『愛されている』という、証。
「………無理だな。」
「! っな…」
あんだけ期待させるような台詞を吐いておいて、此処まで来て、さらりと拒絶する剣八に、絶句した。
「───っな、んで…っ」
「生憎、嘘は吐けねぇ性分だからな。それは言えねぇ。」
その台詞を聴いた瞬間、今まで忘れていた頭痛とか吐き気とか気持ち悪いモン全部思い出して、聞きたくない言葉に涙が浮かぶ。
「───っ」
途端に込み上げる嗚咽と嘔吐感を押さえ込んで、せめて殴ってやろうと右手に力を籠めた瞬間──
多分落ちるときの引力よりも強く
引き寄せるように掻き抱かれて
他の邪魔な音なんか入らないくらい
一番脳に近い場所で
「愛してる」
掠れるくらいの低音美声が心ごと鼓膜を揺さぶった。
「っな…っ、ん──で…っ?」
悔しさに滲んだ涙は意味を変えて、見苦しく言葉を乱す嗚咽も止められないまま剣八の羽織を濡らす。
その涙も舐めとりながら明らかに笑みを交えた声で。
「嘘は言えねぇって言っただろ。『好き』なんつー甘ったるい言葉じゃ、足りそうに無かったんでな。」
「〜〜〜っばっか、じゃねぇ…っ ぅく…っひ」
「煩ェ。嫌ならそう言え。撤回してやる。」
「誰が言うかっ!!」
この期に及んで喧嘩にしかならないこの疎ましい口が、心をカタチに変えて剥離した全てを縫合した。あれだけ拒絶反応を起こした心と躰が嘘のように馴染むのが分かる。
姦しく互いを罵る言葉とは裏腹に、癒着したように剥がれない、繋がれたままの手が、ただ愛しかった。
もう二度と
躯から心が剥がれ落ちて仕舞わぬよう
その腕でキツく抱き締めていて…
-了-
■ヒトリゴト■
心身剥離症候群。最終話。
剥離した心と躰は、関係性を繋ぐ言葉で漸く、元の姿に回帰する。